● 印旛沼土地改良区設立趣意書















 


「印旛沼の水が我々の自由に出来たらなぁ!!」

 これこそ印旛沼周辺を耕作する吾々農民が、祖先代々、強雨に又旱天に、一刻も忘れることの出来ない夢であった。
 この夢を実現する為に、約三百年前に、染谷源右ヱ門が民間企業として着手し、其の後、田沼主殿頭、水野越前守等が、幕府の命を受けて工事を行ったが、いずれも失敗に終ったのである。明治以降も、数回、企図と調査が行われたが、何れも計画倒れとなったが、大正年代における閘門(こうもん)の完成は新紀元を画したのであった。 昭和十三・十六両年の大洪水は地元有志の蹶起(けっき)をうながし、干拓の計画実施につき、農林省及び陸軍省の納得を得て、地元有志は花見川疏水期成同盟会の結成をしたのであった。
 敗戦により、とんざするかに見えたが不撓不屈(ふとうふくつ)止むことのない活躍はG・H・Qまで動かし、印旛沼手賀沼治水開発協会の結成となり遂に昭和二十年十一月、閣議の決定をもって、多年の宿望は遂に実現に移されたのであった。 この計画の大要は、印旛沼周辺の水、毎秒二四〇立方米を、平戸地先より東京湾に至る疏水路によって自然排水し、又毎秒四十四立方米を安食、土浮のポンプによってくみだすことにより、二千二百二十六町の干拓田を造り、周辺既耕地五千二百五十六町は洪水被害から救はれ、沼周辺三十ヶ所に設けられる揚水機によって灌漑の完全を期さうといふ計画である。 この為、周辺既耕地は二毛作化し、増反と相俟って、大東京の食糧庫として、二十八万石の増産量は、直ちに我々農民の頭上に輝くのである。
 その後、六年間に十二億の国費を費し印旛沼疏水路の用地買収の大部分を終り、昭和二十九年度に於て一応開通の見とほしを以て、現在、犢橋(こてはし)村地先を堀さく中である。 然るに現在までは工事地先の農民の犠牲のみで、一粒の米も得て居ないばかりか、総予算百三十七億と云れる本事業が、毎年二億か三億位の予算では、完成はいつの日でせうか。 我々地元農民として拱手傍観していてよいでせうか。 さきに手賀沼では土地改良区を結成して、排水ポンプの予算獲得に成功し、今後二ヶ年で完成の見通しがつきました。農林省当局も、全国事業区域で土地改良区のないのは印旛のみであり、土地改良区なしには、予算をつけることは困難であると言明される所となったのであります。
 然るに我々の祖先が、幾度も失敗した原因は何んでせうか。何れも民間企業家又はお上の事業であり、我々農民が、積極的に自からの計画を以て完成に協力したものではなかったのでした。
 こゝに祖先からの夢を実現出来る唯一最高のものは、地元農民の連合組織である土地改良区でなければなりません。 この際、耕地整理組合と普通水利組合の機能を併せた土地改良区の、設立によって、各地域毎に、干拓工事の計画を折込んだ綜合土地改良計画を樹立し、工事の完成に技術的政治的総意を結集して、祖先代々の夢を、一日も早く実現した所の理想的な農業地帯を建設しやうではありませんか。 何卒、この趣旨の意のある所をくまれ、各位の絶大なる御協力を希ふ次第であります。

昭和二十七年 十一月十三日
印旛沼土地改良区設立準備会


印旛沼土地改良区 設立年月日 昭和28年6月10日設立
東農局第1号