● 国営印旛沼開発事業と印旛沼土地改良区


















       (1)開発事業の着手まで 

 印旛沼開発事業で近世の史実に残っているものを見るとその目的は沼の干拓であるが、併せて利根川から江戸へ通ずる水道の便も計画されていた。しかし、事業は非常に困難を究め、いずれも挫折している。
 
着工年次 事業主体 代表者 挫折の理由
享保9年(西暦1724年) 個人施行 染谷源右衛門 資金難のため
天明3年(西暦1783年) 幕府直轄 老中 田沼主殿頭 工事中水害並に政変のため
天保11年(西暦1840年) 仝上 老中 水野越前守 政変により後継者なきため

 明治以降も数回調査企画が行われ何れも計画倒れとなったが、昭和13年、16年の大洪水を契機として、再び活発化し、昭和18年、印旛,手賀沼沿岸農民は両沼の湛水を東京湾に排除させるため、疏水路開削を一日も早く実施することを願い関係大臣に嘆願書を提出した。敗戦により頓挫するかに見えた開発事業は、極度の食糧難及び引揚者の増大等、時の社会状勢を背景に、地元では「印旛沼,手賀沼治水開発協会」の結成となり、又、政府においては、これらの社会状勢の解決のため、昭和21年11月国営事業として採択し印旛沼、手賀沼開発事業にふみ出した。


       (2)当初計画 

 昭和21年11月計画樹立された全体計画は印旛沼、手賀沼、両沼の高位部の湛水はそれぞれ印旛承水路、手賀承水路に集めて平戸地点で合流後16.5kmの印旛疏水路により検見川地先の東京湾に排除する計画である。計画排水量の60%を自然排水し、40%は安食及び木下機場により利根川に機械排水する。


印旛沼,手賀沼干拓事業当初計画(クリックすると大きな図で表示されます)→

       (3)第1期計画 

 当初計画は最終の理想計画であるため、その完成には国家財政上からも相当長期を要するものであったため、発生頻度中等程度の水害に対処する計画を図りまず既耕地の安全を図りかつ相当面積の造成田をうる目的をもった第1期計画を昭和25年に作成した。完成予定は昭和29年3月とした。

       (4)第1次改訂計画と印旛沼土地改良区の設立 

 第1期計画の主幹工事である印旛疏水路は用地買収が難航し、又国家の財政上の問題がからみ、昭和28年に至っても疏水路上流部手賀沼疏水路の一部掘削と、これに隣接する平戸干拓(造成田83.5ha)ならびに鹿島川下流部鹿島干拓(造成田56.5ha)の工事が行われたのみであった。ここにいたり、事業の目的を早期に達成させるため、印旛、手賀両沼の一括排水を改め、手賀沼関係を分離した計画とし、昭和28年土地改良法の改正に伴い、干拓事業のみでなく周辺既耕地の土地改良事業を含めた干拓土地改良事業の基本を昭和29年10月に決定した。

 一方地元では昭和24年制定の”土地改良法”にのっとり、いち早く手賀沼地区において土地改良区の設立を見て排水ポンプ予算獲得等の具体的活動に入った。印旛沼地区においてもこの具体的活動と相まって、印旛沼土地改良区設立に動いていた。
 昭和27年11月設立準備会(委員長吉植庄亮)による設立趣意書に土地改良区の必要性が次の様に記されている。

 印旛沼の水が我々の自由に出来たらなあ!!これこそ印旛沼周辺を耕作する吾々農民が祖先代々,強雨に又旱天に、一刻も忘れることの出来ない夢でありました・・・・・中略・・・・・然るに我々の祖先が幾度も失敗した原因は何でしょうか。何れも民間企業又はお上の事業であり我々農民が積極的に自らの計画を以って完成に協力したものではなかったのであります。今や祖先からの夢と先覚者有志の念願を実現するための唯一最高のものは、地元農民の全部が参加して組織した土地改良区でなければなりません。
 この際、耕地整理組合と普通水利組合の機能を併せた土地改良法に基づく土地改良区の設立によって、各地域毎に干拓工事の計画を折込んだ総合土地改良計画を樹立し、工事の完成に技術的政治的総意を結集して、祖先代々の夢を一日も早く実現し、理想的な農業地帯を建設しようではありませんか。


全文につきましては「設立趣意書」をご参照ください
 


 この様な活動があり、昭和28年3月10日「印旛沼土地改良区設立認可申請書」が農林大臣田子一民に提出され、昭和28年6月10日東農局第1号をもって認可となった。
 印旛沼土地改良区設立により土地改良事業費相当の事業費に対して3割の地元負担が新たに賦課されることとなった。尚、昭和31年2月本区において事業同意をしたことにより、印旛沼干拓土地改良事業として改訂計画は確定した。

印旛沼干拓事業第一次改訂計画(クリックすると大きな図で表示されます)→

       (5)第2次改訂計画と水資源開発公団への移管 

 第1次改訂計画における計画基準雨量(10年確率12日間連続300mm)は当初計画と同じであったが、その後狩野川台風、伊勢湾台風など異常災害の発生もありこれを変更する必要が生じた。(30年確率3日連続278mm) 又、疏水路建設の技術上の問題により中間点、大和田に排水機場を新設すること。京葉工業地帯の開発に力を注ぐ千葉県が工業用水確保のため、この事業に参加すること。等の理由により第2次改訂を行うことになった。 計画は地元同意を必要としたが、昭和37年12月本区組合員の70%にあたる6,425名の同意を得て、昭和38年3月決定された。
 一方、経済情勢の変化により水系全体の水需要調整が大きな問題となり、水資源開発促進法の制度にともなって昭和37年3月水資源開発公団が設立され、利根川水系の建設省直轄矢木沢大久保ダム事業が公団移管となった。併せて印旛沼開発事業の内、干拓事業は国の委託事業として昭和38年4月公団に引き継がれたが、土地改良事業を公団事業として実施するためには、改めて地元に計画の説明、費用負担の同意等の折衝を要した。本区はこの要請をうけ総代会を開催し、14項目に亘る質問の見解を県、公団に求める等して、過半数をわずかに上回る数をもって公団移管が議決された。その後組合員の同意を得るため、説明会を繰返し、3分の2以上の同意を取りまとめ、9月7日同意書の提出となった。
 この結果、同年10月公団に承継された。
 尚、この事業はこれまでを「印旛沼干拓土地改良事業」と呼び、公団に移管されて「印旛沼開発事業」と名称を変えた。


印旛沼干拓事業第二次改訂計画(クリックすると大きな図で表示されます)→